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吉増剛造『詩とは何か』を読む③

前回までの記事をまとめると、
吉増剛造よしますごうぞう氏にとって詩とは
「名づけがたい根源的なところにあるらしいもの」
を表現する手段であり、
「純粋言語」へと向かっていくことであり、
さらに純粋言語さえも超えて
「基本的には実現の不可能な、空しい行為」
とわかっていながら、
それでも苦しみ、もだえ、
そうした「逡巡しゅんじゅん、躊躇の中にこそ、ふっと一瞬、かおあらわす」
ものをつかみ取ること、
それが「詩」のようである。


では、そこまでしてできる詩とは
どのようなものなのか。
吉増氏の次の詩を
読んでみよう。
 
 
>>

雜神ざつしんアラーキー
 
豪徳寺ごうとくじ露台バルコニーうえそらも、もう何処どッかへ、ってしまった
rubyルビーってるこころ


 
荷車リヤカー台八車だいはちぐるまかげたましいのようなところで
しなびた、しろはな
女心おんなごころれていた
経惟のぶよし
 
名付なづけたとき浄閑寺じょうかんじ和尚おしょう直観こころたゞしかった
おお
無限はてしれぬこころといものの騒哉さわぎかな
おお、経惟のぶよしといもののおそるべきこころのび・・よ!
 
のび・・ルビ・・よ、濁奌どろどろよ、暖簾れん手拭ごいよごれよ、れよ


bi、bi、bi、…… ”の、の、“”、…
 
女神めがみがさ、この“bi、bi、bi”のあなには、んでるのであって
だれも、みたことの、ない
ひかりみち
つくっちまったのが
 
豪徳寺ごうとくじ三輪みのわWienヴィエナショパンしょぱんモーツアルトもーつあると
bi、bi、bi、…… ”

雜神ざつしんアラーキー
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、pp250-252、※一部ブログ上で表記不可能な表現は改めた)

<<


いかがだろうか。
もはや常人には
理解の及ばない次元にまで
突き抜けているような詩ではないか?


この詩は
写真家の荒木経惟のぶよしさんに捧げた詩
のようであるが、
経惟がのびやルビになり、
さらには“bi、bi、bi”の音になり、
ついには“i”という母音に到達する…。


著者は詩を通じて
「名づけがたい根源的なところにあるらしいもの」
へと向かって努力しているが、
純粋な母音の音というのは
そのような根源性へと通ずる
ひとつの細道なのだと思われる。


というのも、著者はこの本の中で
アルチュール・ランボーの「母音」
という詩を引いて、
音について語っているからだ。


>>

母音
 
黒いA、白いE、赤いI、緑のU、青いO、母音たちよ、
ぼくは、いつの日か、お前たちの秘められた誕生を語ろう。
A、耐えがたい悪臭のまわりでぶんぶんと羽音を立て、
きらきら光るハエの、綿毛に覆われた黒いコルセット、
 
影の入り江。E、湯気とテントの純白、
高慢な氷河の槍、白装束の王たち、傘形花のおののき。
I、緋の衣、吐かれた血、怒りにかられた、
または悔悛に酔いしれた、美しい唇に浮かぶ笑い。
 
(以下略)
 
(『ランボー詩集』粟津則雄訳、新潮社)
 
(吉増、前掲書、pp140-141)

<<


母音に色をつけるという
独特な詩だ。
母音 × 色のように
謎の組み合わせをすることによって
詩が生まれるのであれば、
自分も詩作をする際に
積極的にいろいろな組み合わせを
試してみるのもいいかもしれない、
と思った。


指 × 原子とか。
親指が炭素で
人差し指が酸素、
中指が水素で
薬指が窒素、
小指がヘリウム
みたいな…?


…まぁそれはさておき、
吉増氏はこの詩に対して
次のように語る。


>>

純粋な「音」というものが、ただそれだけで、すなわち、それが立ち上がった瞬間には「意味」を伴ってはおらず、ただ純粋な音のままで、こういい返すことも出来るのでしょうか、根源のすがたのままで、「詩」として立ち上がってしまう瞬間というものが、おそらくは存在しているのでしょう。ランボーのこの詩は音と色の「コレスポンダンス」とか、いろいろな解釈が可能なのでしょうけれども、わたくしといたしましては、そういった「理屈」の前に、ランボーはやはり「A」、「E」、「I」、「O」、「U」という、「音」自体の純粋な響きにこの瞬間に出会い、その驚きが、この宝石のような小品を立ち上がらせることになったのだ、……そう考えてみたいのです。
これは、ポール・ヴェルレーヌが言いました、「すべての芸術は音楽の状態を憧れる」ということとは、一部分は重なるとしても、やはりまったく異なる事態でしょう。おそらくはヴェルレーヌが苦心をいたしておりました、美しい語の響きを互いに交響させ合うことによって詩を成り立たせる、といったことではないのです。そのような人工的なといいますか、意識的に「構成」をしていくような世界ではない。ここで言います「A(アー)」だとか、「U(ウ)」というのはもっと根源的なもの、何か言葉の素粒子そりゅうしのようなものがひょっと顔を出したというような稀有な事態なのですから。
ランボーのこの「母音」という詩はそのような何か根源的な感覚に、やはりどこかでさわっている。
 
(吉増、前掲書、pp145-146)

<<


美しい語の響きを意識的に交響させ、
人工的に構成された詩を作るのではなく、
A、E、I、O、Uという根源的な音の、
「何か言葉の素粒子のようなものがひょっと顔を出したというような稀有な事態」
を表現する。


言葉の音楽的な
リズムとか語調とか、
日本語だったら七五調とか、
そういうものに乗せていくのではなく、
「ただ純粋な音のままで」
詩を立ち上げていく。
そこに根源性へと通ずる道が
開かれていく。


先ほど引用した著者の詩の中の
“bi、bi、bi、……”
であるとか、
“i”
だとかも、
そうした音の表現なのであろう。