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吉増剛造『詩とは何か』を読む④

前回の記事では
純粋な「音」の根源性に触れた。
例えば母音(A、E、I、O、U)には、
吉増剛造よしますごうぞう氏の言葉を借りれば
「何か言葉の素粒子のようなもの」
が宿っており、
その音の響きが
詩の根源性へと通ずる細道を
開いていくようである。


この話を受けて僕は
昔読んだフランスの哲学者、
ミシェル・フーコーの『言葉と物』
という本のことを思い出した。
ものすごく難解な哲学書であり、
僕は大学生の時、最初に読んで
まったくわからず挫折し、
それから4、5年後くらいに
もう一度読んだけど
おそらく2割も理解できなかったであろう、
そんな本である。


だけども
昔読んだ記憶の中から
母音について何か書いてあったなぁ
というのが引っかかり、
今一度その本を開いて
必死でパラパラとページを
めくってみたところ、
次の記述を見つけた。
 
 
>>

母音もまた孤立させられると、慣用によって忘れられていた太古の名詞の秘密をあかすだろう。Aは所有(持つ avoir)、Eは実在(existence)、Iは力(puissance)、Oは驚き(まるく見開いた眼)、Uは湿気(humidité)、したがって体液(humeur)をあらわす*。そしておそらく、われわれの歴史のもっとも古い深みにおいては、子音と母音とがまだ明瞭でない二つのグループとして区別され、人間の言語ランガージュを分節化するいわば二つの名詞を形成していたのだ。すなわち、歌うような母音は情念を、堅い子音は欲求を表現したのである**。
 
*原註 クール・ド・ジェブラン『言葉の博物学』(一八一六年版)、九八─一〇四ページ。
**原註 ルソー『言語起源論』(『全集』一八二六年版、第一三巻)、一四四─一五一ページ、及び一八八─一九二ページ。
 
ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明 訳)『言葉と物 ─人文科学の考古学─』(旧版)新潮社、pp128-129)

<<


ここには
母音の根源性について
別の角度からうかがい知ることができる気がする。
母音には「慣用によって忘れられていた太古の名詞の秘密」
が宿っているという。
それはAが「所有」を表し、Eが「実在」を表し、
Iが「力」を表し、Oが「驚き」を表し、
Uが「湿気・体液」を表すという。
また、「歌うような母音は情念を、堅い子音は欲求を表現した」
とある。


Aが「所有」を表すと聞いて
僕は千と千尋の神隠し
カオナシを思い浮かべた。
「あ…、あ…」と言って
何かを欲しているような彼の姿は、
ひょっとしたら
人間のもつ根源的な「所有欲」
みたいなものを表現していたのかもしれない、
なんて思った。

カオナシ


それはさておき、
フーコーは、このような考え方を
クール・ド・ジェブランというフランスの文筆家や
哲学者のジャン=ジャック・ルソー
書物の中から発見している。
ジェブランもルソーも18世紀に生きた人で、
その時代の言語学の雰囲気を味わうことができる。


18世紀のヨーロッパというのは、
既に科学の時代に突入していたとはいえ、
まだダーウィンの進化論も
アインシュタイン相対性理論
パスツールロベルト・コッホの細菌学説も
マクスウェルの電磁気学
知らない時代である。


生命や宇宙への理解、
医学やテクノロジーの進歩も
いまだ現代の水準には遠く及ばない時代、
合理的思考というのが一人歩きして
データが不十分、
というか実証が充分に伴っていないような
科学の時代、


そんな時代であるから、
その頃の人文科学の学説は
科学というには程遠く、
かなりの独断や偏見にまみれていた
といっても過言ではないだろう。
先ほど引用した
母音についての学説もまたしかり。


しかし、僕は
科学者でも哲学者でもない、
ただの詩を書く人である。
詩人の観点からすると、
この時代の学説は
科学的に正しいかどうかではなく、
何かきつけられるものがある
ように思う。


たとえば、
先ほど引用した部分の少し前に
次のような記述がある。


>>

あらゆる語は、いかなるものにせよ、眠っている名詞である。動詞は形容名詞と《あるエートル》という動詞の結合したものであり、接続詞と前置詞は身振りを表わす名詞の固定したものであり、曲用と活用は他の語に吸収された名詞にほかならない。いまや語は口をひろげ、そのなかに堆積していたすべての名詞が舞いあがる。分析の基本的原理としてル・ベルが述べたように、「あらゆる集合体の諸部分は、集められる以前にべつべつに実在していたはず」*なのである。このことからル・ベル自身、あらゆる語を、忘れられた古い名詞がついにふたたびそこに姿をあらわす音節要素(…)に還元した。たとえば**、古代ローマの伝説的建設者《ロムルス》(Romulus)の名は、《ローマ》(Roma)と《建てる》(moliri)からくるし、その《Roma》は、力(Robur)を指示した《Ro》と、偉大さ(magnus)を指した《Ma》とからくる。
 
*原註 ル・ベル『ラテン語解剖』(パリ、一七六四年)、二四ページ。
**原註 ル・ベル、前掲書、八ページ。
 
フーコー、前掲書、p.128)

<<


動詞も接続詞も活用形も含め、
あらゆる語は
究極的にいえば全部名詞だ、
というトンデモ・・・・学説である。
ル・ベルという人も
やはり18世紀の人(?─1784年)である。
でも、考え方としては非常にロマンがある、
というか中二病心がくすぐられる気がするのは
僕だけだろうか?


我々が慣用的に用いているさまざまな言葉──
日常的にふつうに使っている言葉であっても、
それらを分解していくと、
実は太古の時代に用いられていた
根源的な名詞の組み合わせに行き着く
というのは、発想としては
面白いではないか。


ル・ベル氏によれば
ローマ(Roma)という語は
古代ラテン語で力を意味するroburロブルの《Ro》と、
偉大さを意味するmagnusマグヌスの《Ma》
からくるそうだ。
つまり、Romaには《偉大な力》という意味が
暗に込められている。


この考え方に従えば
例えば「あい(愛)」
という言葉の裏側にも
何か隠された根源的意味を
見出せるのではないか?


先の引用で
Aは「所有」を、Iは「力」を
表すのをみた。
ということは、愛とは実は
《(相手を)所有する力》
のことだったのではないかと
考えることもできる。
…うーむ、どうだろう。


>>

言語ランガージュはそれ自体において、たがいに覆いあい、狭めあい、隠しあいながら、もっとも複雑な表象の分析や合成さえも可能にするためたがいにささえあっている、無数の名称の巨大なざわめきにほかならない。文の内部で、意味シニフィカシオンが無意味な音節にひそかにささえられているように見えるまさにその場所に、眠っている命名が、目に見えないが消すことのできぬ表象の反映を音の仕切りのなかに閉じこめている形象が、つねに存在しているのである。
 
フーコー、前掲書、p.129)

<<


18世紀の知識人たちは、
言語の中に何か神秘的なものを読み取ろうと
頑張っていたようである。
新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭に
「初めにことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった」
とある。
言葉が神そのものであるのなら、
言葉の中に神秘を読み取りたくもなろう。


ただし、それは日常的な言葉の意味の中にはない。
文章はまず単語(意味のまとまり)に
区切ることができるが、
それよりもさらに細かく分割して、
音節や子音、母音、文字にまで分解する。
「文の内部で、意味が無意味な音節にひそかにささえられているように見えるまさにその場所に」
そこに神の御業みわざをみるためである。


神が世界を創造し、
そして言葉が神であるのならば、
世界は言葉によって創造されたことになる。
世界の創造は
人間の創造に先立っているのだから、
人間がコミュニケーションツールとして
言語を発達させる以前に、
世界を創造した
神の原初的な「ことば」があるはず…。
そのような神の言に
もっとも近しいところにあるのが
母音なのかもしれない。


神をコンピュータにたとえるなら、
神のことばは0と1の2進数で表現され、
人間にとっては
直接理解することはできない。
世界は神がプログラムして
つくったものだとすると、
ふつうの人々が日常的に使う言葉は
いわば、アプリやソフトウェアのようなものである。
神の言である機械語
人間の言葉であるアプリ・ソフトウェアとの間に、
その橋渡しをするプログラミング言語がある。


ふつうの人々にとって
このプログラミング言語は、
フーコーの言葉を借りれば
「無数の名称の巨大なざわめき」
のようなもので、
わけがわからないものにしか
映らないかもしれない。


しかし18世紀の学者たちは、
そのプログラミング言語を探究することで、
日常的な言葉の奥底に潜む
「目に見えないが消すことのできぬ表象の反映を音の仕切りのなかに閉じこめている形象」
を発見しようとしていたのかもしれない。


コンピュータが理解できる0と1の羅列は
ふつうは目にすることはないが、
しかしそれは
アプリやソフトウェアの働きの奥底で
「消すことのできぬ表象の反映を音の仕切りのなかに閉じこめている形象」
としてうごめいている。


>>

ともかく、十八世紀において、この種の分析は抽象的な可能性以上のものではありえなかった。(…)今日のわれわれや十九世紀以来われわれの築きあげてきた言語ランガージュの学から見れば価値がないとはいえ、当時にあっては言語記号シーニュ・ヴェルバルの分析全体を言説ディスクールの内部に引きとめておくことを可能にしていた、ひとつの反省が展開されていく。(…)人々は、命題のあまりにも目の粗い分析では網目からこぼれ落ちてしまうあれらの語、音節、屈折、文字のなかに隠されていると考えた、晦冥な名詞的機能を探究したのだった。
 
フーコー、前掲書、p.127)

<<


18世紀の学者たちにとって
命題(SはPである、のような文)
を分析することは
「あまりにも目の粗い分析」であり、
そうしたふつうの文章を
言語学的に、あるいは論理学的に
考察することよりも、
「語、音節、屈折、文字のなかに隠されていると考えた、晦冥かいめいな名詞的機能」
を探し出すことに心血を注いだようだ。


当時の知識人たちの
言語に対する探究は
科学的というよりは
宗教的、ないしは詩的なもの
に近いかもしれない。


──さて、
母音の根源性の話から
ずいぶんと寄り道をしてしまったが、
吉増氏の本に戻ろう。
吉増氏は「U(ウ)」という音に
インスピレーションを受けた瞬間が
あったのだという。
それは次のエピソードによって
語られる。


>>

 あれはイタコの間山まやまタカさんの傍らで聞いていたときのことでした。まだ戦争の名残りがあったころだったから、戦死者の霊魂を降ろすわけです。「うちの死んだ息子はどうでしょうね、出して降ろしてくださいませ」って、「それじゃあやるべえ」っていうんで降ろしていくと、靖国神社やすくにじんじゃから出てきた若い兵隊さんが、「ああ、こうしてこうしてああして……」、「おらはがないだば、……お土産ももらえねで、靖国へ帰る」なんて言うんです。東北弁だからよくわかんないのだけど、素晴らしいバイブレーションをもらったので、恐山おそれざんから急いで下りて、弘前の先のだけ温泉に行って、宿のお手伝いさんをとっ捕まえてテープ聞いてもらったんですね、「これどういう意味だ?」って。
 そうしたら、宿のお手伝いさんが言うには、「おらはがないだば」って言っているというのです。その「U(ウ)」っていうのは「運」、「運命」っていう意味なのですと。そのときに驚きましたのは、この「ウ」という「音」だけが純粋に立ってきたんですね、わたくしの耳に。しかも「ウ」、というよりもむしろ「U」と表記したほうがより正確であるような純粋な「音」として。これはわたくしの耳が驚いた、稀有な瞬間でありました。
(…)
 言語の垣根を超えて働いている「詩の抜け道」「抜け穴」のようなもの。「抜け穴」をもう少し違った言い方をしてみますと、「輝くような細道(小道)としてのブラックホール」のような、もしかしたら「詩の奥の細道」のようなもの、そのようなものの通路が思いがけない瞬間に、開いて、それが、思いがけないところへと通じていった、……そんな体感を得た、それは不思議な経験の瞬間でした。
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、pp143-145)

<<


東北弁で「U(ウ)」は
「運」のUであり、
「運命」のUであるそうな。
それがイタコさんの口から
放たれた瞬間に
詩の「抜け穴」が開く。


詩へと通ずる道、
「詩の奥の細道」は
そんな瞬間から
開かれていく。
何気なく毎日耳にする音声であっても、
ひょっとしたら
よく耳を澄ますと、
どこかに詩へと繋がる
穴が開いているのかもしれない。


僕が思うに
Uは「海」のウでもあり、
「宇宙」のウでもある。
神がこの宇宙を創造した際、
もしかしたら
「U(ウ)」と言って
創造したのかもしれない、
…なんてね。


長くなってしまいました。
今回はここまでです。
読んでくださり
ありがとうございました。
では、また次の記事で。
さよウなら。