黙夫の詩の菜園 言葉の収穫

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吉増剛造『詩とは何か』を読む⑧

詩とは不思議なものだ。
俳句や短歌のように
ルールがあるわけではなく、
小説のように
物語があるわけでもない。
論文や学術書のように
何かを論じているでもない。
そして日記とも違う。
いわんや
標語やキャッチコピーでもない。


だけど「詩」は成立する。
人々はその文章を「詩」と認識し、
詩をみ、
詩にかれる。
一体、詩の何が
人々を惹きつけるのか?
そして「詩」とは
何なのか?


それを説明するのは
容易なことではない。
ゆえに、今回も
吉増剛造よしますごうぞう『詩とは何か』
という本を手引きに
詩の密林の中を
分け入っていこう。
 
 
著者はこの本の中で
原民喜はらたみき氏の「燃エガラ」
という詩を取り上げる。
広島出身で原爆投下の際に
被曝の経験をした原民喜氏。
その経験を表現した詩である。


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夢ノナカデ
頭ヲナグリツケラレタノデハナク
メノマヘニオチテキタ
クラヤミノナカヲ
モガキ モガキ
ミンナ モガキナガラ
サケンデ ソトヘイデユク
シュポッ ト 音ガシテ
ザザザザ ト ヒツクリカヘリ
ヒツクリカヘツタ家ノチカク
ケムリガ紅クイロヅイテ
(…)
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、p123)

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カタカナで書かれた悲痛な詩。
吉増氏はこの詩の中の
「シュポッ」という部分に
フォーカスをあてる。


>>

この「シュポッ」という音に、わたくしは説明のできない衝撃を受けておりました。
 わたくし自身がそれを翻訳して表現をしますと、まるで宇宙の根源が抜けてしまったような、それまでの「ピカ」とか「ピカドン」とかでは決して伝えられてこなかった本当の状態での、……「物の声」が、でいいでしょうね、……その「物の声」が、恐らく人間や生物や動物だけではなくて、物たちもそうした世界の中に吸い込まれた、そんな声が聞こえたのです。
 ああ、「吸い込まれた」という言葉が、いままさに出てきてしまいましたね。何かがあらわれるというよりも、巨大な力によって吸い込まれる。(…)原民喜さんが感じさせられたらしいマイナスの巨大な引力、巨大な吸い込み軸の吸い込み口、吸い込み穴のあらわれ。それが空になった。世界になった。宇宙になった。その表現であったということにまでかろうじてたどり着きました。(…)それがこの「シュポッ」だったのです。
 
(吉増、前掲書、pp123-125)

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さすが一流の詩人は
読む観点が違うなぁと
感心させられた。
最初僕はこの詩を読んだ時、
「シュポッ」には関心が
向かなかった。
これは核の悲惨さを伝える詩なんだな、
カタカナで書かれることによって
その悲惨さがいっそう際立っているんだな
というくらいの感想しか出てこなかった。


でも
よく考えてみると
「シュポッ」は少し異様である。
ふつう、大きな爆発を表現する時は
「ドーン」とか「ズドーン」みたいに
濁点を使った文字が
効果音として使われる。
しかし、そうではなく
「シュポッ」──


ライターで火をつけるみたいな
間のぬけたような音。
それを原子爆弾が爆発した音として
表現する。
ここに詩人・原民喜氏の感性が
発露している。


原爆が何もかもを破壊してしまった
というのではなく、
原爆によって何もかもが
み込まれてしまった、
吉増氏の言葉でいえば
「マイナスの巨大な引力」
が生じ、その中に
「人間や生物や動物だけではなくて、物たちもそうした世界の中に吸い込まれた」
ような、そんな感じ。
それが「シュポッ」に
表れている。


それを吉増氏は「物の声」
と言っている。
耳で物理的な音を聞くのではなく
物そのものの《声》を聴く──
だから「ドーン」ではなく
「シュポッ」なのだ。
僕のように
詩人を目指す人であれば、
この「物の声」を聴く感性を
養わなければならないだろう。


>>

 広島で原爆を経験した原民喜さんがどうしても片仮名書きでしなければ語れなかった「経験」、あるいは『戦艦大和ノ最期』を書かれた吉田満よしだみつるさんが全文、漢字と片仮名で書かれた、あの非常時の表現のようなもの。やってごらんになるといいですよ、片仮名で書かれてみると、論理や意味や思想はそのままでありながら、別の血液が流れはじめますから。
 こうしてわたくしたちの詩は、この「シュポッ」を通じて、詩の持っているらしい、もちろん科学や哲学ではとうていたどり得ない、表現と言っても芸術と言ってもいけない、もしかしたら「詩」と言ってもいけないかもしれない、こうしたことの到来の「しるし」、一つの小径に、ほんの、僅かに、辛うじて、たどり着いたような気がいたしております。
 
(吉増、前掲書、p126)

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ここに「詩とは何か」についての
ヒントがある。
あえてカタカナで書くこと、
あえて「シュポッ」で表現すること、
それが「科学や哲学ではとうていたどり得ない」
あるいは小説でも到達できない領域へと
言葉を昇華させる。
この「シュポッ」こそが
「詩」なのである。
小説ではこのようには
表現できないだろう。


「表現と言っても芸術と言ってもいけない、もしかしたら「詩」と言ってもいけないかもしれない」
とまで著者は言っているが、
ここまで言われると
正直、僕はもうついていけない。
詩と言ってもいけないって、
それを言ってしまったら
じゃあもう何なの?
てことになる。


羽生善治藤井聡太の将棋が凄すぎて
「これはもはやただの将棋ではない」
と言ってしまうようなものか?
詩も、凄いものになると
もはや「詩」の領域を超えてしまう
ということなのか?


…まぁ、それはいいとして、
先に進もう。
著者は『ゴドーを待ちながら
などで知られるノーベル賞作家、
サミュエル・ベケット氏の
最後期の作品
『名づけられないもの』
の中の文章を鑑賞する。
(邦訳は宇野邦一うのくにいち


>>

それは沈黙、沈黙の上のわずかなごぼごぼ、ほんとうの沈黙ではなく、私が口まで耳まで浸かる沈黙ではない、私を包み、私をはぎ取り、私といっしょに呼吸する沈黙ではない、ほんとうの沈黙、溺死者の沈黙、私は何度か溺れた、それは私ではなかった、私は窒息した、私は自分に火をつけた、木切れや鉄棒で頭をたたいた、それは私ではなかった、
(…)
 
こうして声を発して聞いていますと、この間合いの間隙の、呼吸のすき間に、止めることができないような力がみなぎってきているのが感じられます。これは、恐るべきことに最後の章、約三十ページ近く、こうした輝くような呼吸の光が立ち上がってきて、ピリオドが全くないような世界が出現してくるのです。
最晩年の『Worstward Ho(いざ最悪の方へ)』などの最後の作品を書く前に、「まだ少し苦しむ力が残っている」とそういう言い方をしたベケット。西洋の芸術の、特に音楽的な呼吸のぎりぎりのところにまで行った人。いわゆる小説とかそうしたものではとても届きようのないようなところへの径を、ついに存在せしめたベケットの存在があることを、わたくしは申し上げる必要を感じております。
 
(吉増、前掲書、pp150-151)

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すごい。
怒濤どとうのごとく押し寄せる言葉たち。
朗読すると
自我が揺さぶられそうになるような
言葉の旋風。
これが「いわゆる小説とかそうしたものではとても届きようのないようなところへのみち
ひらくのか…。


人はなぜ詩を詠み、
詩に惹かれるのか?
そして
詩とは何なのか?
だんだんと
少しづつ
おぼろげながらではあるが
それが
見えてきたような気がする…。


>>

 表現というものは、通常、誰でもが使っている、ある意味においては「手垢てあかの付いた」、すでに流通をしております「ことば」によってしか成り立たないとされております。たしかにそうでなければ、通常言われる「コミュニケーション」は成り立ちませんよね。ですが、そういった「ちゃんとしたかたち」をいまだ取ってはいないもの、あるいは、いまようやく何らかの「かたち」を、……不細工ながらも、……取りはじめている、その途中途中のなにものか、そのようななにものかの、(…)その瞬間、瞬間の起ちあがり、……そのようなものの紙一枚下の世界の響きを見つめること、そのような段階に、いまやわたくしたちの、この「芸術」と呼ばれる営みは、もはやいたっているのではないでしょうか。
 ハイデガーはみずからの著作を「作品ではない、径である」と言いました。できあがった作品、例えば詩で言いますと紙面に印刷された作品は、もしかしたら死んだ標本にすぎないのかも知れない。それよりも、「作品」として固定される以前の一回一回の、「ことば」が立ち上がるときの「すがた」にこそ、ほんとうの「詩」は……少なくともその「素顔」は……現れるのではないでしょうか。
 
(吉増、前掲書、p170)

<<


人が日頃コミュニケーション・ツールとして
使っている、「手垢の付いた」言葉。
そうした「ちゃんとしたかたち」を
取っている言葉では表せられぬもの──
言葉が「かたち」を取る直前の、
「その瞬間、瞬間の起ちあがり、……そのようなものの紙一枚下の世界の響きを見つめること」、
それが「詩」と呼ばれるものの
営みのようである。


ゆえに
詩として書かれた言葉には
日常的な意味では
理解が出来ないことがある。
日常的な意味の言葉、
つまりコミュニケーション手段として
完成された、「かたち」ある言葉で
書いてしまうと
それはただの散文になってしまう。


「「ことば」が立ち上がるときの「すがた」」
を書く。
言葉の意味を伝達するのではなく、
言葉そのものを表現する。
それが「詩を書く」
ということのようである。


しかし
それが具体的には
どういうことなのか?
どういうふうに書けば
それが「詩」の文章になるのか?
どういう詩を書けば
世界的な評価を受けるのか?
良い詩と悪い詩の
境は何なのか?


それを明快に説明し、
良い詩を書くためのマニュアルのようなものを
作成することはできないのだろうか?
──それは極めて困難なことだと
僕は思う。
(そもそも、それが出来たら
AIでも良い詩が書けることになる)


やはり
詩を上達させるためには、
良い詩にたくさん触れて、
感性を研ぎ澄ませ、
言葉に対する感度を高めていくしか
方法はないだろう。
(でもそれって人工知能のやる
機械学習と同じではないか?
だとしたら近い将来、AIも
優れた詩を量産する時代が来るのではないか?)


最後に
吉増氏の次の言葉を引用して
本記事を締めくくろう。


>>

わたくしたちはこうして、ある普遍的なところに触れようとして、それと同時にいわゆる散文的な文脈、あるいは論理によってはたどり得ない、あるいは物語的な結構によってはたどり得ない、割れ目、沈黙、烈断れつだんに出会う、そうした詩の普遍性に出会ったように思います。
 
(吉増、前掲書、p127)

<<


このような「詩の普遍性」に出会う、
そのために人は詩を詠み、
詩に惹かれていくのではないだろうか。
詩人を目指す人であれば
この「割れ目、沈黙、裂断」に
どれほどせまれるのかが重要であり、
そしてもしAIが詩を書くのであれば、
この「割れ目、沈黙、裂断」を
どのようにしてアルゴリズムで作り出すのかが
決定的な要素になってくるだろう。


ありがとうございました。
この連載もそろそろ終わりに
したいと思います。