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吉増剛造『詩とは何か』を読む⑦

詩とは何か?
この問いに対して
著者の吉増剛造よしますごうぞう氏は
詩とは◯◯である、という
明快な回答を
与えてはくれない。


さまざまな詩や思想、芸術作品
などを鑑賞しながら、
また著者の経験を語りながら、
「ここに詩に通ずる道がある」
「ここに詩に繋がる穴がある」
と、少しずつ少しずつ
「詩」とは何なのかを
浮き彫りにしていく。


あたかも
彫刻することによって
木や石の中から
美しい彫像を
浮き上がらせるかのように、
著者の語りによって
「詩」がぼんやりと
その姿があらわにされていく。
それがこの『詩とは何か』
という本である。


そんな感じで、
今回もまた「詩」を目指して
言葉の大理石を
彫り進めていこう。
 
 
本書では
リトアニア出身の映像作家・詩人である
ジョナス・メカス氏の
話が出てくる。
メカス氏のことは
初めて知ったので、
Wikipediaで経歴を見てみた。

ジョナス・メカス(写真著作者:Furiodetti、クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 一般 ライセンスの下に提供されています)


生まれは1922年、
第一次世界大戦後に独立したばかりの
リトアニアのセメニシュケイで
小農の家に生まれる。

リトアニア(在リトアニア日本大使館HPより)


1940年にリトアニア
ソ連の侵攻を受けた後、ソ連編入され、
またその翌年には独ソ戦によって
ナチス・ドイツからも侵略を受ける。
当時高校生だったメカス氏は弟と共に
ウィーンへ脱出を試みるも
ナチスに捕まり、
強制労働キャンプへ収容される。
1945年3月、キャンプを脱出し、
デンマークの避難民の収容所で暮らす。
逃走中に書いた詩が弟の手で英訳され、
1948年に出版、これが注目を集める。


1949年にアメリカ・ニューヨークへ渡る。
そこで16ミリカメラを入手し、
詩作をする一方で、
身辺の映像記録も始める。
メカス氏はハリウッド映画に対抗する
実験映像の創作を試み、
日記のような映画スタイルを確立した。


このような波乱に富んだ人生を
送った人であり、
前衛芸術にくみする者であるから、
さぞ反骨精神があり、
とがった感じの人なのかと思ったが、
どうもそうではないらしい。


実際にメカス氏に
会ったことがあるという著者は
次のように語っている。


>>

 彼は「coward」(臆病な人)でした。控えめでシャイ、極限的に繊細な、震える心の持ち主。プライベートフィルムの巨匠、ニューヨークの前衛芸術家の代表のようにいわれるけど、わたくしの感想は違いました。一九七〇年代の初めに見ました『リトアニアへの旅の追憶』は、まさに映画の「原生命」に触れる体験でした。ボレックスの一六ミリ映画カメラで、一刹那一刹那の小さな幸せの芽生えを切り採っていく。その映像は終始一貫して揺れ、重なり、震えていました。
 一九八五年にニューヨークで初めて会った時、握手しようと手を差し出したら、メカスさんはヨーロッパの古い妖精のように、あるいは影のようにすーっと後ろに退いていったのです。すぐそばにいるのに、途方もなく遠くにいるようなしぐさ。「ああ、これは本物の詩人だ」と直観をいたしました。
 その時、『時を数えて、砂漠に立つ』を見ました。見終わった後、観客の一人がメカスさんに質問をしたんですね、「Why is your movie so shaky?(なぜ、あなたの映画はこんなに震えているのですか?)」と。メカスさんは帽子を取ってお辞儀して口ごもりながらこう答えました。「Yes, because my life is shaky.(それは私の人生が震えているからです)」と。
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、pp107-108)

<<


「控えめでシャイ、極限的に繊細な、震える心の持ち主」
であったというメカス氏。
その震える心は映画にもあらわれ、
彼の作品は終始震えているそうだ。
YouTubeに『リトアニアへの旅の追憶』が
あったので実際に観てみたが、
本当に最初から最後まで
映像がブレまくっていた。



www.youtube.com


メカス氏の映画は
「日記映画」ともいわれるように、
この映画には
これといった物語ストーリーは存在せず、
ただただ彼が撮り続けてきた
身辺映像が
彼のモノローグとともに
流れていく。
しかも映像は終始震えている。


ハリウッド映画に代表される
商業用映画に不可欠な
エンターテイメント要素は
皆無である。
僕は最初観ていて
何じゃこりゃ? と思ったが、
最後まで観てみると、
吉増氏が述べたように
「映画の「原生命」に触れる体験」
のような感じがした。


正直、
面白いかと言われれば
別に面白くはない。
この映像作品には
物語もなければ
美麗なグラフィックもなく、
秀麗な役者も登場しない。
(登場するのはメカス氏の家族や
友人、知人だけである)


その上、
ドキュメンタリー的な要素も
少ない。
引用したYouTube動画の
30:34〜31:14辺りに
次のようなモノローグがある。


>>

“あなた方が知りたいのは社会的現実だろうね”
“ソヴィエト化されたリトアニアの実態とか”
“私にそんなこときかないでくれ”
“私は記憶の破片をひろい集め”
“過去の痕跡を追い求めつつ”
“故郷を探す旅の途上にある”
“ひとりの難民なのだから”
 
(「リトアニアへの旅の追憶1 ジョナス・メカス監督(1972米)」YouTubehttps://youtube.com/watch?v=e-gcsBP0lZc&feature=share(2022/12/24参照)、日本語字幕は中沢新一、西村美須寿)

<<


これを聴いた時、
やはりメカス氏は
「詩人」なんだなと
僕は思った。
ドキュメンタリー映画のように
社会的な現実を映して
自身の訴えたいことを
表現したいわけではない。


この作品の大半は
メカス氏の故郷、
リトアニアのセメニシュケイでの
家族の暮らしの断片が
ただただ映されるだけだ。
今でこそVlogというものがあるが、
これはVlogとも違う気がする。


Vlogにはまだ“観せよう”、“楽しませよう”
とする要素があるが、
メカス氏の作品にはそれが感じられない。
僕が思うに、
Vlogが映像の「ブログ」ならば
メカス氏の日記映画は
映像の「詩」である。


詩を読んだ時に感じる
心の動き──
物語もなければ
言葉の意味も分からない、
だけど何か感じるものがある。
それを説明することは難しいけど、
でも何か感じるものがある。
だからこそその文章にかれる──


リトアニアへの旅の追憶』
を観た感想はそれと同じだった。
この映像作品は
メカス氏のドキュメンタリーでも
Vlogでもなく、
彼の詩心を映像として
表したものではないか
と僕は思った。


本書には
メカス氏の詩も載っている。
(翻訳は村田郁夫いくお


>>

 牧歌1 古きものは、雨の音
 
古きものは、茂みの枝に降りかかる雨の音、
夏のくれないに染まる曙にくクロライチョウの声、
古きもの、それは、私たちの交わすことば、
 
黄色くなった大麦や、カラス麦の畠のこと、
濡れそぼち、風立つ、秋の侘しさのなか、
         牧童たちが囲む焚き火のこと、
ジャガイモ堀りのこと、
そして、夏の蒸し暑さのこと、
冬の白い輝き、果てしない道をゆくそりのこと。
また、材木を積んだ重い荷馬車のこと、
         休閑地の石ころのこと、
粘土づくりの朱色の暖炉、原野の石灰岩のこと、
あるいは、田畠が灰色に暮れる秋の夕べ、
         ランプのかたわらにいるときのこと、──
明日の市に出かける荷馬車のこと、
十月の、水に浸かって、洗い流された街道のこと、
びしょ濡れのなかのジャガイモ掘りのこと、
 
古きもの、それは、私たちのこうした生活──幾世代にもわたって、
踏みならされた原野、くぼみこんだ耕地、
大地の足跡は、語りかけ、祖先の匂いを残す。
あの同じ冷たい石の井戸から、私たちの祖先は、
戻って来るたくさんの家畜たちに、水を飲ませた。
(以下略)
 
(吉増、前掲書、pp108-110、※一部ルビを書き加えた)

<<


「古きもの」の断片が
次々に語られていく…。
これはまさに
メカス氏の日記映画と同じだ。
この詩をそのまま
映像にしたのが
リトアニアへの旅の追憶』
のように僕は感じた。


ジョナス・メカス氏から
詩について学べることは何か?
吉増氏の次の言葉を
引用して本記事を終えよう。


>>

 メカスさんって言う人は、隅っこにいて、つねに世界を人の視線のそばで、かすかにたわんだようなところから見ているんですね。その目、これが大事なのです。狂気までは行かないけれど、どこかでやはり狂気にも近いような、ぎりぎりの控え目さと病と衰弱と、そして少し「はすっかい(斜交い)」から世界を見ているこの目というものが。
 詩作とか芸術行為というのは、「わたし」が主役ではないのです。自分で気がつかないことを、ふっと、……そんな仕草の中にこそ、おそらく「詩」というものは、少しだけ感じられるものでしょう。あるいは日々の動作の中から、ふっ、……と、そうしたしぐさをつかまえる。そのような「弱い」しぐさ、身振りの中に、おそらくは「詩」というものが立ち現れてくる瞬間はあるのです。
 
(吉増、前掲書、pp113-114)

<<


「詩作とか芸術行為というのは、「わたし」が主役ではない」
のだそうだ。
…そうだったの?
と軽く衝撃を受けたが、
でもよく考えてみると
一理あるかもしれない。


詩を書く際も、
「さぁ、詩を書くぞ」と
意気込んで机に向かうよりも、
散歩している時だったり、
シャワーを浴びている時だったり、
人の会話や身振りを
何気なくぼーっと眺めている時だったり、
そんな時にふっと浮かんでくる
思いや言葉を書き留めておいた方が
いいものができたりする。


これは
「わたし」が主体となって
詩作をするのではなく、
世界の方が
「わたし」に向かって
「詩」を投げかけている
ような感じがする。


世界が「わたし」を通じて
詩を書かしめるような、
そんな感覚。
その世界から発信されてくる
「詩」を敏感に
キャッチできるかどうか、
それが詩人に求められる資質
なのではないかと思わされた。


その能力を備えるためには
メカス氏のように
震えるような繊細な心で
世界を「はすっかい」から
見つめる目が
必要なのかもしれない。


それではまた次の記事で。
読んでくださり
ありがとうございました。