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吉増剛造『詩とは何か』を読む⑤

今回は本書の第二章
「「戦後詩」という課題」
を読んでいこうと思う。
まず、著者は
第二次世界大戦を経まして、「詩」の姿は完全に変わってしまった、……というのがわたくしの考えです」(p.52)
という。


>>

 太平洋戦争の敗戦によって、おそらく当時の日本人は、……その中には幼かったですけれどもわたくしも含まれておりますが、……原爆などのやしがたい「傷」とともに、もうどうしようもない「恥」の感覚を植えつけられてしまいました。この敗戦という、実存レヴェルでの屈辱、「恥」の感覚。あるいは「核」という未知の原罪、……。さらには無邪気にそれまで信じていた価値の崩壊、そしてそのようなものを信じていた自分というものに対する根本的な「恥ずかしさ」……そんなさまざまな「恥」の感覚、あるいはなんと言いますか、一種もうどうしようもない「もどかしさ」という感覚が、この時代に生を受け、「戦後」になってあらたに詩の世界に登場した人びとの心の奥底には伏流をしているような気がいたします。
 これは、戦争が根源的な悪であり、また先の大戦が「侵略戦争」であったとされることとはまったく次元を異にすることです。そのような表面上の善悪、……もちろん、それも大事なことですけれども、……も越えたところで、敗戦国の国民であるということには、やはりいいようもない「屈辱感」があるのではないでしょうか。そして実存が受けたそのような傷は、決して癒やされることはない。当然、「作品」にもその「しるし」は刻印されることでしょう。
 
吉増剛造よしますごうぞう『詩とは何か』講談社現代新書、pp50-51)

<<


敗戦によって植えつけられた「恥」、
どうしようもない「もどかしさ」や
いいようもない「屈辱感」、
そして原爆によって受けた「傷」……。
それが「「戦後」になってあらたに詩の世界に登場した人びとの心の奥底には伏流をしているような気がいたします」
という。


しかし、
戦争を体験していないし、
戦後の復興時代も経験していない
僕のような人間からすれば、
この「恥」の感覚は
イマイチよくわからない。
もちろん、歴史を知ることで
そうした感覚を知識として
頭では理解することはできる。
しかし、実際に体験した人々と
同じように「実存レヴェルで」
身体的に共有することはできないと思う。


この「恥」の感覚を知らないことは
日常生活を送る上では
別に何ら問題はない。
が、詩を書く上では
おおいに影響してくるだろう、
と僕は思う。


というのも、
戦後間もない時期に書かれた
戦後詩に宿る、
このなんとも言えない「恥」や
「屈辱」の感じは、
どう頑張っても、僕には
書けそうにもないからだ。


著者は
「戦後詩の一つの極点を示した人」(p.52)として
田村隆一氏を挙げ、
「四千の日と夜」という詩を引く。


>>

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
 
見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆行線を
われわれは射殺した
(……)
 
(吉増、前掲書、p53)

<<


この詩からただよってくる
何とも恐ろしい感じ…。
この感じは
戦争を体験した人でないと
書けないだろう。
この詩に対して著者は
次のように語る。


>>

この詩の中から聞こえてくるのは詩人の声ばかりではなくて、詩人の心が深いところで忘れがたく聞いているまわりの声、戦場での軍曹ぐんそう伍長ごちょうさんや、あるいは二等兵一等兵、兵隊さんの声もその中にはあったでしょう、あるいは叫び声もあったでしょう、非常に深い時代の悲痛な声であったはずだということです。そういう、「向こう側」からやって来てしまった、あるいは漏れて来てしまう、声を、詩人の耳が聞いてしまって、その声を聞き取った詩人の中の声が、今度はこういう「記憶せよ」とか「聞け」という、命令形の忘れがたい形となってここでは発話されているのです。田村隆一さんには、耳の奥に残るそのような声を聞き取ってその「別の声」を引き出す「力」がありました。
(…)
ここには大戦争という、一般人には大厄災としか言えないような未曾有みぞうの経験、本章の主題で言いますと、「絶対的な断絶」の体験をした者としての詩人の恐怖、苦悩、痛みとい交ぜになった、しかしそれでもなおそれに抗して、本章のキーワードで言いますと、「もだえ」、「身をよじらせ」ながら、一つの、聞こえない「声」をなんとかして立ち上がらせようとする、ある倫理的な「態度」を読み取るべきではないでしょうか。
 
(吉増、前掲書、pp54-55)

<<


パート①の記事で僕は、
一流の詩人が目指すところは
世俗的、私的な領域を超えた
根源的な場所であること、
そして
精神の奥深くでうずいている
声にならない声に耳を澄ませ、
そこへとにじり寄り、
その声をすくい出すこと──
そんなことを書いた。


田村隆一氏もまた
そうした声を聞く、
というより聞こえてきてしまう・・・・・・・・・
詩人の一人なのだろう。
といっても、
そうした声は
戦争を経験した者であれば誰しも
多かれ少なかれ
感じ取ることがあるかもしれない。


田村隆一さんには、耳の奥に残るそのような声を聞き取ってその「別の声」を引き出す「力」がありました」
と著者が言うように、
詩人にはその
別の声を引き出す「力」がある。
力──言い換えれば「能力」。
その能力があるかどうか──
それが普通の人と詩人との
違いを示しているのではないだろうか。


紙とペンがあれば
誰でも詩を書くことはできる。
しかし、「詩人」になることは、
詩を書くこととは別次元のこと
のようである。
詩人になるためには
もっと精神を研ぎ澄ます必要がある
と僕は思った。


何となく
感じるがままに詩をつづ
というのではなく、
吉増氏の言葉を借りれば
「「もだえ」、「身をよじらせ」ながら、一つの、聞こえない「声」をなんとかして立ち上がらせようとする、ある倫理的な「態度」」
を表現すること、
それが詩人なのではないかと思った。


本書にはもう一つ、
田村隆一氏の「保谷ほうや」という詩が
引用されている。
初めて読んだ時、
僕はこの詩が
すごく好きになった。


>>

保谷はいま
秋のなかにある ぼくはいま
悲惨のなかにある
この心の悲惨には
ふかいわけがある 根づよいいわれがある
 
灼熱の夏がやっとおわって
秋風が武蔵野の果てから果てへ吹きぬけてゆく
黒い武蔵野
(…)
沈黙の武蔵野の一点に
ぼくのちいさな家がある
そのちいさな家のなかに
ぼくのちいさな部屋がある
ちいさな部屋にちいさな灯をともして
ぼくは悲惨をめざして労働するのだ
根深い心の悲惨が大地に根をおろし
淋しい裏庭の
あのケヤキの巨木に育つまで
 
(吉増、前掲書、pp56-57)

<<


ここには
難しい語彙や
婉曲えんきょく的な言い回しはなく、
わりと率直な言葉で
表現されている。
その上、文の調子も
リズミカルで
読んでいて心地良い。
だけども、
この詩からは
なんとも言えない
淋しいような、虚しいような、
悲しいような感じが
漂ってくる。


視覚的な表現もすごくいい。
「秋風が(…)吹きぬけてゆく」と
まず空の情景が目に浮かび、
そこから武蔵野の市街へ、
武蔵野の一点にある家へ、
家の中のちいさな部屋へ、
部屋の中のちいさな灯へと
だんだんとミクロな焦点に
絞られていく。
そうすることで、続く
「悲惨をめざして労働するのだ」
という一文の悲壮な感じが
より強く際立つように思う。


「黒い武蔵野」
という表現がある。
これは、吉増氏によれば


>>

この「黒」は、ゲルマンの森とか、そういった一般的に言う「深い」と言われているような「黒」のことではないんです。そういうんじゃない。こうもり傘の色や、傷痍しょうい軍人がうなだれてる姿のような、戦後しばらくしてからの時代には、むしろありきたりと言ったほうがよかったようなもの。
 
(吉増、前掲書、p56)

<<


なのだそうだ。
「沈黙の武蔵野」
とも表現されているように、
この詩は戦後、
焼け野原になって
何もかも失ってしまったような
武蔵野の街を想像させる。
それでも
「淋しい裏庭の/あのケヤキの巨木」
はそこにたたずんでおり、
それが
「根づよいいわれがある」という
心の悲惨を引き立てている
感じがする。


>>

 ここには余人では言えない、田村隆一だけが感じ続けている「恐怖」がある。この「黒いもの」、そして「沈黙」は、ほんとうに田村さんのなかにあるのです。引用の五行の、五回も繰り返されます「ちいさな」を聞き取ることが叶うのか、どうか、ここに詩の心が隠されています。そうして、それがただ単に「思想」のことばとしてではなくて、「黒い武蔵野」という未知の「詩」のことばとなって登場をした、そこに詩人の真面目はあるのです。田村さん自身も意識的ではない、非常に深い詩の血脈が、このときに現れたのです。
 こういう、ある詩的な観念の抽象度の冴えが田村さんという方はすごいんですね。
 
(吉増、前掲書、pp57-58)

<<


「「思想」のことばとしてではなくて、「黒い武蔵野」という未知の「詩」のことばとなって登場をした、そこに詩人の真面目はあるのです。」
僕的には
ここが重要なポイントだと思った。


というのも、
ふとした思いつきで
詩を書き始めた僕であるが、
素人がやりがちなのが、
自分の想いや思想を
「説明」しようと
してしまうことである。
(これは小説を書く際にも当てはまるだろう)


抽象的な表現を
なんとかして伝えようとして
つい説明的になってしまう…。
しかし説明をしてしまうと
それは「詩」からは
遠ざかってしまう。


「黒い武蔵野」という言葉は
唐突に出てきて、
それが何であるかは何も言わない。
この「詩的な観念の抽象度の冴え」、
この抽象度を絶妙に保つこと、
「そこに詩人の真面目」
があるのだそうだ。


…とまぁ、いろいろと
分析的なことを書いてみたが、
とにかく僕は
この詩が気に入ったのだ。
素朴な表現で
リズミカルで
なんとも言えない空虚や哀愁が
ストンと心に響いてくる──
僕が書きたい(目指したい)詩は
こんな詩なのである。


そんな詩が書ける
「詩人」になるためには
もっと精進が必要だと思った。