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吉増剛造『詩とは何か』を読む①

前回の記事(パート⓪)にて、
僕は詩についてあまりに無知であるから
詩について何か勉強しようと思い、
吉増剛造よしますごうぞう氏の『詩とは何か』という本を読むことにした、
ということを書いた。
では、さっそく本の内容に入っていこう。


(※はてなブログにはキーワードリンクという機能があり、
下線の付いたワードをタップ、ないしクリックすると
そのワードの解説ページに飛ぶことが出来るので、
吉増剛造氏の経歴についてはそちらを参照されたい。)
 👆
 
 
まず、言っておきたいのは、
この本はいわゆる詩の「ハウツー」本ではない。
詩の書き方とか、ルールとか、歴史とか、
そういうことが書いてあるわけではない。
では、何が書いてあるのか?
ひとまず著者の言葉を聞いてみよう。


>>

「詩の心」、「詩情」とか「詩心」とか、それから「ポエジー」あるときには「ポエム」とか、そんな言い方をしますけれども、それよりもはるかに底のほうの、「かたち」にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、「思想」というよりも、「思いのかたまり」といったほうがよいようなもの、それの、そのはたらきのようなものをこそ、そして、そのはたらきを促す、あるいはさそう僅かな力をこそ、つかまえなければならない。それが大戦争、敗戦、そして3・11という大災厄を経て、わたくしたちの心が自分に課している、「課している」という言い方が、たった今できましたが、そうしたある、「運命」という言葉を使うのはとても重いのですけれども、そういうところへとにじり寄っていくための、「詩」とは、細い道のひとつなのだろうと思います。ですから、「和歌」や「俳句」やあるいは「小説」も含めて、戦前、戦後すぐまでの、「かたち」のある芸術活動とは、今や「詩」は、まったく違うものになってきています、そうひとまず申し上げておきたいと思います。
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、p.6)

<<


…さて、
もう既にうんざりしてしまった方もおるかもしれない。
とにかく文章がまどろっこしい。
この本は著者が喋ったことを文字に起こしたものであり、
そして著者の語り口が非常に独特なので、
かなりクセのある文章になっている。
僕も最初は面食らったが、
しかし、こうした独特な語り口に慣れることもまた
詩の修行の一環であろうと思い直して
どうにか読み進めていった。


全体を読み終わってみると、
先ほど引用した、この本の序にあたるところが、
この本全体の予告になっている感じがした。
「詩とは何か」というタイトルの本ではあるが、
結局、著者は詩とは何かについて最後まで
はっきりとしたことは何も述べなかった。
…いや、述べられなかったというべきかもしれない。


吉増氏にとって詩とは、
詩心ししんとかポエムとか、
「それよりもはるかに底のほうの、「かたち」にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいもの」
を表現するものだそうだ。


詩を書くというと、
ふつうは心に浮かんできたものを言葉にして
それらを繋ぎ合わせてつづっていくイメージだが、
そうしたふつうに浮かんでくるものよりも
もっと深いところにある何か、
日常的な思考では捉えることのできない
根源的な何か、
意識のはるか底を流れる
かたちにならない何か流れのようなもの、
こうしたものを「つかまえなければならない」
と著者は言う。


しかし、これはある種の背理をはらんでいる。
詩は、あくまで言葉で表現するものだ。
だが著者は、
かたちにならない、名づけがたいものを
表現しなければならないという。
言葉にならないものを
言葉で表現しなければならないのである。
これは大変なことだ。
いわば、水で彫像を作れと言っているようなものだ。
…どうやって?


だが、これでひとつの合点がいった。
現代詩は総じて理解不能
わけがわからず、いけ好かんと
僕は感じたのだが、
そもそも詩は
そうならざるを得ないところがあったのだ。


吉増剛造氏のような
一流の詩人が目指しているところは、
日常的な世界を超えた根源的なところ、
ふつうの言葉で認識・理解できる範疇をすり抜けた世界、
僕だったらカッコつけて「深淵」とでも
言いたくなるような、
そんな場所なのだ。


だから現代詩は難しい。
ふつうの頭で理解しようとしても
太刀打ちできない。
そもそも、日常的な意味で理解しようとすること自体が
かど違いなのだ。


では、現代詩を書くにはどうすればいいのだろうか?
滅茶苦茶に、デタラメに言葉を綴ればいいのか?
…そうではない。
素人がテキトーに絵の具を塗りたくっただけの絵では
ピカソのような抽象画にはならないのと同じように、
詩も乱雑に言葉を並べればいいというものではない。


先ほどの引用文に戻ると、
吉増氏が言うには
大戦争、敗戦、そして3・11という大災厄を経て、わたくしたちの心が自分に課している、(…)そうしたある、「運命」という言葉を使うのはとても重いのですけれども、そういうところへとにじり寄っていくための、「詩」とは、細い道のひとつなのだろうと思います」


戦争や敗戦、
つまりは(アメリカという)異文化・元敵国による支配、
あるいは自然災害等によって
我々の内に深く刻まれた傷、
ふだんはあまり考えたりしないが、
しかし、心の奥深いところで静かにうずいている
声にならない声、
そのようなに耳を澄まして、
そこへと「にじり寄っていく」こと。


吉増氏にとって詩とは、
そういう「名づけがたい根源的なところにあるらしいもの」
すくい出すための
ひとつの手段のようである。
そしてそれが出来るのは、
和歌や俳句や小説のような
「「かたち」のある芸術活動」ではなく、
詩なのである。


吉増氏は1939年生まれ。
幼少期に戦争を体験し、
子どもの頃に敗戦後の社会を
生きてきた人である。
そうした人の心には
戦争や敗戦というものが
生涯にわたっていつまでも
残り続けるのであろう。


ここから学べること──
僕のような素人の書く詩は
とかく個人的かつ世俗的な想いや経験を
つづることが多くなりがちだが、
吉増氏のような詩人は
個人的・世俗的なものを超えた
もっと深いところのもの、
時代とか歴史とか文化とか伝統とか、
あるいは神話とか宗教とか集合的無意識とか、
なんかそういう
人類全体を流れる何か大いなるもの・・・・・・・・
に向かって精神を研ぎ澄ませている、
そんな感じがした。


詩人として
文壇ぶんだんに何か一石を投じたいのであれば、
そういう普遍的、というか
根源的なものを
表現していかなければならないだろう。
とりあえずはそんなことを学んだ。