黙夫の詩の菜園 言葉の収穫

自作詩を載せるブログ TikTokで朗読もやってます

MENU

吉増剛造『詩とは何か』を読む⑨

さて、今回は
表題の本、吉増剛造よしますごうぞう『詩とは何か』
のまだ触れていなかった第二部、
「詩の持つ力とは何か」の部分を
読んでいこう。


第一部では
さまざまな詩が引用され、
著者なりの視点で
それらの詩を鑑賞しながら
詩とは何かということについて
語られていた。
一方、第二部では
詩の引用はあまりなく、
著者の詩に対する姿勢や考え方が
ひたすらに述べられている。


それらを一通り読んだ上で、
吉増氏の詩に対する姿勢スタンス
自分なりに凝縮してまとめると、


「かたちあるもの」へ抗うために「身悶みもだえる」


といった感じになる。
このことについて
今回の記事では書いていこう。
 
 
ここでいう「かたちあるもの」とは
俳句や短歌、小説など
一定のルール・形式にのっとって
表現する文筆活動のことをいう。
また、それだけでなく、
もっと広く日本語のような言語、
文法のような既成の枠組みや制度
そのもののことも表す。


そうした「かたちあるもの」
を突き破って現れてくる世界、
吉増氏はそれを「根源」と
呼んでいるが、
その「根源」へと到達するために
著者は詩作へと向かう。


といっても、それは
容易ならざることである。
ふつうの意味や文法を超えた
文脈の狭間はざまの中から
言葉をひねり出さなければ、
その根源の世界に
至ることはできない。
ゆえに、著者にとって詩作は
苦しみ、身悶えするような
行為となる。


それが著者の詩に対する姿勢である
と僕は捉えた。
著者自身の言葉を
引用しよう。


>>

 わたくしは、これまで幾度か、「現代・・詩ではなく自由・・詩なんだ」と申し上げてまいりました。ここで言う自由とは、何をやってもいいということではなく、(…)いかなる「出来合い」のものにもりかからないという決断、あるいは態度のことなのです。あるいはそれは芸術における「ウソ」=「フィクション」を、徹底的に拒否するということなのかも知れない。
 ただ、急いで付け加えなければならないのは、これは「純化」、すなわち「純粋性」を探求するということではない・・ということです。(…)むしろ、純粋と言うよりも根源。もしかしたら「赤ちゃん」みたいなものかも知れない、「言葉の赤子性あかごせい」(…)そのようなものとしての根源を摑むために、それを妨げるあらゆる「フィクション」を、おそらくは「制度」と呼び慣わされているもの、……その最大のものはやはり言語でしょう、……その向こう側、あるいはその奥底か下底にあるものと出逢ってみたい。わたくしにおいて、「創作」という「行為」にわたくしを衝き動かしているものをあえて言葉にしてみますと、そういうことになるのではないかという気がいたします。
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、pp244-246)

<<


言葉の「赤ちゃん」みたいなもの、
「言葉の赤子性」としての根源をつかむ。
そのために
いかなる「出来合い」のものにも
りかからず、
あらゆる「フィクション」「制度」、
その最大のものとしての言語
を否定し、
「その向こう側、あるいはその奥底か下底にあるもの」
へと向かっていく──


人は成長していくと
さまざまな「フィクション」、
すなわち「制度」に
からめとられていく。
正しい文法に則った言語を
用いるようになるし、
福沢諭吉が印刷された紙切れを
お金としてあがめるようになるし、
国の定めた法に従って
自身の意志や行為を規定するようになる。
(人を刃物で刺したり、
お店の商品をお金を払わず持っていったり、
赤信号を無視して進んだりはしない)


これらは
文明社会が築き上げた「フィクション」
であり、人々の心と身体に「常識」
として深く刷り込まれていく。
我々はこのフィクションの眼鏡を
通じて世界を見ている。
だから我々は世界のほんとうの・・・・・姿、
ありのままの姿、「根源」の姿を
見ているわけではない。


しかし、赤ん坊は
まだこの「フィクション」を知らない。
赤子はまだ何ものの制度にも
絡みとられていない。
赤子は世界の根源のただなかにいる。
だが、それでは文明社会を
生き延びることはできないので、
人はさまざまなしつけや教育を
施され、
フィクションが本物として
存在しているように思い込まされる。


そんなわけで
世界の「根源」を
垣間かいま見るためには
一旦、赤子の精神に立ち返って
フィクションのフィルターを
はずす必要がある。
それを文筆で表現するためには
俳句や短歌、小説、論説のような
既成のルールや制度、あるいは文法に
乗っかったものではなく、
「自由詩」でなければならない。
「詩」こそが
「言葉の赤子性」を探求できる
文芸領域である。


といっても、
著者も言うように
自由だからといって「何をやってもいい」
というわけではない。
滅茶苦茶にやってしまえば
それはただの「狂気」に過ぎなくなる。
狂気に陥ることなく、
世界の根源に触れる──
それが「詩人」に求められる資質なのだろう
と僕は思う。


>>

わたくしの詩には「世界が曲がっているから音楽だ」という一行もあるのですが、どこかで曲がっている、ゆがんでいる、ひずんでいる、あるいは坂道になっている、傾いている。必ずしも「バロック的」なものではないけれど、でも必ずやどこかに崩れ、ゆがみ、ずれのようなもの、曲がりというものが偏在していて、それに対して常に目を見張っていなければならないという、ある種の直観に基づいた、信念のようなものが根強く存在しているのです。
 
(吉増、前掲書、pp179-180)

<<


世界の根源に至るためには
フィクション=制度によって構成された
「現実」のフィルターを
突き破らなければならない。
そのためには意識的に言葉を
ゆがませたり、ひずませたり、
ねじ曲げたりしてみることも
重要なようである。
そうすることで
日常的な言葉や思考では捉えられない、
深淵からの声のようなものが
立ち現れるのかもしれない。


もちろん、
そうすることだけが
詩を書くことのすべてではないだろう。
これはあくまでも吉増氏の
詩に対する姿勢であって、
そうではない、もっと美しい言葉で
綺麗に構成された文章でつづ
詩の書き方もあるだろう。


ただ、
「純粋と言うよりも根源」
と著者は言っている。
光よりも闇、陽ではなく陰、
写実的な美しさよりも
抽象絵画に表れる「美」を
追求していくような、
そんなスタンスが
吉増氏からは感じられる。


>>

ちょっと図式的なことを敢えて申し上げますけれども、「ハーモニー」と言われているものには実は二種類があるのではないでしょうか。一つは、音楽理論で言われるようなハーモニー。クラシック音楽の和声理論がその元になっていて、音が合っているとか、これは不協和音でダメだとか、わりと簡単に言えるようなもの。言うなればわかりやすい、理論としてのハーモニー。でも実は、この理論的に合ったハーモニーだけがハーモニーなのではないんじゃないか。一見、合っていないようでいて、実はどこかものすごく遠いところでは合っている、……そんな言うなれば、「遠心的な」ハーモニーというものも、実はあるんじゃないか。
 
(吉増、前掲書、p181)

<<


ここにも著者の
「かたちあるもの」への抵抗が
読み取られるであろう。
既成の音楽理論で構成された
美しいハーモニーを目指すのではなく、
一見すると
不協和音に聞こえるようなものの中から
別の次元での調和を探し求める──
そんな「遠心的なハーモニー」
なるものを探求して
著者はまた身悶みもだえる。


これと関連して
吉増氏は「声」に関しても、
美しい声よりも「濁声だみごえ」に
かれるのだという。


>>

ほんとうの「純粋な声」というものは、ほんの少し、ずれているような、紙一枚、濁っている、かすかな濁声なのです。(…)折に触れてわたくしはこの「濁声」の重要性を強調して参りました。直観的に言いますと、濁声というのは、通常、純粋に澄んだとされている声よりも、内実が豊かなのだと思うのです。(…)蒸留水っておいしくないじゃないですか。むしろこの濁声の方が、より微細と言いましょうか、多くの素粒子を含んでいる。すくなくとも、ただ単に純粋なだけの声というのはわたくしにとっては退屈で、美空ひばりだったり、ルイ・アームストロングだったり、あるいは浪花節だったりの、あの微細な無数の襞が震えているような声の方に引かれるのですね。
 
(吉増、前掲書、pp183-184)

<<


純粋に美しい声よりも
少しがさついたような濁声の方がいい。
清澄せいちょうよりも汚濁おだくの中から根源を見出す──



www.youtube.com
[動画:ルイ・アームストロングの濁声]


著者は1960年代の初め頃、
ディラン・トマスという詩人の
朗読する声を聞いた時、
その深い濁声に感化され、
濁声に魅了されたのだそうだ。
そして
吉増氏は積極的に自らも
朗読を行うようになる。



www.youtube.com
[動画:吉増剛造の朗読]


ぶったまげた。
とてつもない朗読パフォーマンスだ。
この鬼気せまる感じ。
狂気すれすれの状態。
これが「根源」に触れる詩人の《声》なのか
と痛感させられた。
僕もTikTokで一応
朗読のようなものをやっているが、
ここでもまた一流の詩人との
格の違いを
見せつけられてしまった…。


>>

 作品というものを成立させるためには、最終的には「一なるもの」、「秩序」、「形」がやはりどうしてもなきゃいけないのですが、でもそれを成立させるためには、まずヘラクレイトス的なひずみなり渾沌なりゆがみなり曲がりをできる限り導入しておいて、そこで出てくる力動をつかまなければならない。そしておそらくは、このひずみ、渾沌、ゆがみ、曲がり、というものが、いま申し上げた「濁声」の内実なのですね。わたくしにはろくに才能もないけれど、だから失敗作もあるけれど、始原の渾沌を大切にする、その心だけはつねに大切に持っております。
(…)
 ただ、人工的に形式的にまとめようとすると、むしろその触感がなくなっちゃうんですね。それにわたくしの場合は、ある形にはまった、つまり既成の「制度」に乗っかった「枠」の中で作品をつくるのではなく、「自由詩」という、何もないところから、まずその「形」をつくる所から始めなければならなかった。最初から既成の「形」を受け容れればいいのだったら、俳句、短歌、小説でいいんですよ。(…)俳句や短歌や小説みたいに制約があればむしろ簡単なんです、……もっとも、簡単といってしまいますと、いささか語弊ごへいがありますが。(…)これは朔太郎が見事に言ったことですが、わたくしたちは、まさしく未完成を目指している。それが自由詩の夢のような領土である、と。
 
(吉増、前掲書、pp.189-190)

<<


「自由詩の夢のような領土」
──それは既成の枠組みや制度に
乗っかった芸術領域ではなく、
何もないところから、
「形」をつくるところから
ひらかれていく。
それも「人工的に形式的にまとめよう」
とするのではなく、
始原しげん渾沌こんとん」を大切にしながら
「未完成を目指して」
つくられていく。


たとえるなら、
自然を切り拓いてから
コンクリートで固め、
そこに設計図に基づいた
精巧な建築物を構築する、
というのではなく、
原生林をそのままにして、
東南アジアやアマゾンの
密林地帯に住む人たちのような
ジャングルと調和した住み
つくっていく…
といった感じだろうか。



野生の美学──
そんな言葉がしっくりきそうな、
詩への姿勢スタイル
著者は目指しているように
僕には感じられる。
実際、吉増氏の詩は
野生ワイルドな印象がある。
たとえば次の詩──


>>

独立
 
ただ生きているだけで
生涯一つの言葉にも出会いはしない
その確証がある!
人間、狂うために生まれてきたもの
天の星をほうきではたくために
今朝も
ぼくは
荘子、逍遥遊篇を投げすてる
そして激しく机上を乱打する
両手をあげて部屋のなかを歩きまわる
一隻の船のように
だれもがそれぞれの作法で
世界を消す
権利を認める
その確証がある
今朝も
ぼくは
茫然と韻をふむ
バッハ、遊星、0ゼロのこと
  バッハ、遊星、0ゼロ のこと
両手をあげて部屋のなかを歩きまわる
ぼくはここで死んでゆくのか
一人でワルツを踊るようにして
そしてまた
机上を激しく乱打して
また韻をふむ
くりかえせ、くりかえせ、くりかえせ、
バッハ、遊星、0ゼロ のこと
物語狂め!
ぼくは素足で韻をふむ
水面上で韻をふむ、虹の根元で音をたたく
両手をあげて部屋の中を歩きまわる
…………
数時間すると
二、三人、死人しびとたちが出てきて踊りだす
 
(吉増、前掲書、pp201-203)

<<


何とも力強い、
雄々おおしさを感じさせる詩だ。
本を投げ捨て
机を乱打し
部屋を歩き回って
韻をふむ…。
激しい詩心の発露だ。


「バッハ、遊星、0ゼロ のこと」
とあるが、この「0」について著者は
「この「0ゼロ 」が真円ではなくて、どうやら楕円なのですね。必ず歪もう、歪もうとしているらしいことですね。それがあらわれている」(pp.204-205)
と語っている。
また、「これは激しい詩篇ですね。この「激しさ」も、「歪み」に発しているのかもしれません。「かわき」といってよいものなのかも知れません」(p205)
とも言う。
ここにも著者の
「始原の渾沌」に向かって
歪もうとする姿勢がうかがえる。


「かたちあるもの」に抗うために身悶える──
それが吉増氏の詩に対する姿勢スタンスだと
僕は捉えた。
先ほどの引用文の中で
「作品というものを成立させるためには、最終的には「一なるもの」、「秩序」、「形」がやはりどうしてもなきゃいけない」
と著者は言うが、そのためにはまず
「歪みなり渾沌なり(…)をできる限り導入しておいて、そこで出てくる力動をつかまなければならない」
とも述べる。


最終的には詩の形にまとめられるけれども、
吉増氏の場合、美しく言葉を構成して
詩を作るのではない。
まず、始原にある渾沌へと飛び込んでいき、
その中から理性をい破るような
言葉のカオスを引きりあげてくる。
そして、それを今度は理性の力を
極限まで研ぎ澄ませ、
無理やり詩の形にまとめ上げる。
そんな渾沌カオス理性ロゴス相剋そうこくから生じる
ダイナミズム──
それが吉増剛造の詩には
表れているように思う。


今回も長い記事を読んで下さり
ありがとうございました。
次回でこの連載も最終回にします。