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吉増剛造『詩とは何か』を読む②

詩とは何かというタイトルの
この本ではあるが、
結局、最後まで詩とは何かについて
はっきりとしたことは述べられていない。
だからといって、
この本が詩について知る上で
役に立たないのかというと
そうではない、
と僕は思う。


「野球」とは何かと問うて、
野球のルールブックが渡されたとして、
果たしてそれで納得するだろうか?
長嶋茂雄が野球について
語った本を読んだ方が
よっぽど「野球とは何か」について
深い理解が得られるのではなかろうか?
たとえその本の中に
野球の基本的なルールなどが
書かれていなかったとしても。
 
 
そんなわけで
吉増剛造よしますごうぞうという詩の巨匠が語る言葉に
真摯しんしに耳を傾けていくことで
詩とは何かについて
何がしか学ぶことができるのだと思う。
まず、著者は
本書のキーワードのひとつである
「純粋言語」について語る。


>>

たった一人で鉛筆やシャーペンやボールペンを持って、紙の前で、さあ、「詩」を書きなさいと言われますと、きっとだれでもが、もう頭が真っ白になってしまうでしょう。しかしそれこそが、じつは大切なことなのです。ドイツのひじょうに優れた批評家でした、ヴァルター・ベンヤミンという人が翻訳について論じながら、あらゆる言語が到達しようとして志向する、「こころざし」、「向かおう」としている、その極にあるのは、「純粋言語」であるという言い方をしていました。その想定されている「純粋言語」に向かって努力するように、でしょうね、そういうところにわたくしたちは、いまや立たされているのです。
 
吉増剛造『詩とは何か』講談社現代新書、pp.7-8)

<<


ベンヤミンを読んだことのない
無学な自分で申し訳ないが、
Google先生に尋ねたところ、
「純粋言語」というのは、
ベンヤミンが翻訳について述べた際に
用いられた概念のようである。


日本語とか英語とかラテン語とか
人類は多様な言語をもっているが、
そうした言語の間で翻訳が可能なのは、
当該言語間に類似、ないしは共通する
認知構造があるからだ。


I ate an apple.を
「私は(ひとつの)リンゴを食べた」と
翻訳できるのは、
日本語にも英語にも
「私」という概念があり、
あの赤い果物を指す言葉があり、
食べるという行為を表現する言葉があり、
さらに食べるという行為を
過去の出来事として捉える
時間概念があるからだ。
もし過去という時間概念をもたない文化の人と
接触したならば
「ate」を翻訳することはできない。


このように考えると、
さまざまな言語をもつ人類ではあるが、
その多様な言語間を超えた、
人類全体に共通する認知構造、というか
言葉による事物の表現の仕方が
存在することが予見される。


食物を口にして体内に取り込む行為は、
日本語では「食べる」であり、
英語では「eat」であり、
ラテン語ではmanducareマンドゥカーレであるが、
その食べるとか、eatとか、manducareとか、
さまざまな言語で指示される以前に、
食べる行為を表す
全人類に共通の概念があるはずだ。


あらゆる母語に分かれる以前の
原初的な、全人類が共有する認知構造、
それに基づいて表現される言語、
それを「純粋言語」というそうだ。
(哲学ガチ勢の皆さん、
間違っていたらゴメンなさい)


人類はさまざまな言語(母語)を
もってはいるが、
純粋言語そのものを話す者はいない。
だが、言語間の翻訳をする際には
言語間の微妙なニュアンスの違いを
行ったり来たりすることで、
この純粋言語を垣間かいま見ることができる。


翻訳者の使命は
ある言語の意味を別の言語(母国語)に
置き換えて伝達することではなく、
この純粋言語をすくい出すことである、
ベンヤミンは主張したらしい。


これはいかにも西洋的な考え方である、
と僕は感じた。
旧約聖書バベルの塔の物語がある。
人間たちが天にも届く高さの塔を
建築し始めたので
神はそれをやめさせようとして
人々の間の言葉を乱し、
人々は互いの言葉が通じなくなったので、
塔の建設をやめて
散りぢりに住むようになった、
というものだ。


純粋言語は、いわば
バベル以前の状態への回帰を
志向する考え方のようにみえる。
人間がさまざまな言語をもつのは、
ユダヤキリスト教的な価値観に従えば
塔の建設というごうに対する
神の懲罰のため。
純粋言語を求めるのは
人類のおかしたこの罪への贖罪しょくざい
ないしは救済を求める行為、
のように僕には思える。


そんなふうに考えると、
吉増氏が詩を書く際に
「「純粋言語」に向かって努力するように、でしょうね、そういうところにわたくしたちは、いまや立たされているのです」
と語るのは
単に言語体系の壁を超えたところを
志向するだけではなく、
何か宗教的な行為のようにも思えてくる。


続けて著者は
次のように語る。


>>

さらに申しますと、この「純粋言語」というのは、学問、思想、芸術の歴史、あるいは詩の歴史から紡ぎだされてくるものというわけでは必ずしもなくて、誰しもが持っています、もう苦しんでどうしようもないような、そんなときにひらめく稲妻のような、一条の弱々しい、かすかな、貧しい街の夜の光のようなもの。こういう、まあ昔だったら「一瞬の直感」というような言い方をしました、そうしたものに心を寄せることを、間断なく心に課する、課するっていうのは「言偏ごんべんに果てる」と書きますね、そういう、心にその荷を負わせる、責任を負わせる、そうしたことに、「詩」は存在しているのだろうと思います。
 
(吉増、前掲書、p.10)

<<


純粋言語は
「誰しもが持ってい」て、
「もう苦しんでどうしようもないような、そんなときにひらめく稲妻のような、一条の弱々しい、かすかな、貧しい街の夜の光のようなもの」
そういうものに
単純に心を寄せていくのではなく、
それを「間断なく心に課する」、
「心にその荷を負わせる、責任を負わせる」
とまで言っている。


著者にとって
詩を書くというのは
非常に苦しく、
心に負荷をかけていく行為
のようである。
イエス・キリスト
人類の罪を深くあわれみ、
全人類に代わってその罪をあがなうために
自ら磔刑たっけいに処されたような、
そんな苦しみにも似ている、
と僕は感じた。


>>

おそらくベンヤミンがみごとに言いました「純粋言語」ということばでもまだ十分には届くことのできない、……そしてこれを決して「純粋詩」という枠組みにはとどめない所にこそ「詩」はあるのだという予感がわたくしはいたしております。「純粋言語」のさらに下へと降る坑道を掘る、あるいはそれは、「+」ではない、「ー」の存在をつかもうとする、基本的には実現の不可能な、空しい行為なのかも知れません。ここまで考えたり、思ったりすると、これはもう危ないことなのかも知れません。しかしそれでも何とかそこにまで届こうとしてもがく、もだえる、そのような行為が、あるいはその行為によって出来上がった「作品」の中にではなく、そのもがいている行為そのものの、逡巡しゅんじゅん、躊躇の中にこそ、ふっと一瞬、かおあらわすのが「詩」というものなのかもしれないのです。
 
(吉増、前掲書、pp.14-15)

<<


著者の詩を書くことへの
姿勢というか覚悟に
もう脱帽するばかりだ。
純粋言語に到達することさえ
大変なことなのに、
その「さらに下へと降る坑道を掘る」
とは…。


しかも「基本的には実現の不可能な、空しい行為」
かもしれないとわかっていながら、
「しかしそれでも何とかそこにまで届こうとしてもがく、もだえる」
そうまでしてようやく
「ふっと一瞬、かおあらわすのが「詩」というものなのかもしれないのです」
と語る。


いやはやこれは…
僕は「詩」というものの認識を
もっと改めなければならないと
反省させられた。


詩を書くというのは、
自分の心の中にしまわれていた
もやもやした何かを
言葉にして取り出す、
そんな感じの行為なのだと
僕は思っていたが、
一流の詩人は
そんなレベルの行為を
はるかに超えた次元で
詩と向き合っている。


詩を書くことは
もはや贖罪しょくざいのようなもの、
人類全体の目には見えない、
意識の底の方でよどんでいる
声にならない叫喚きょうかん
潜在的な痛み、苦しみ、悲しみ、うずき…
そのような闇に満たされた場に
あえて突っ込んでいくこと、
ゆえに心に非常な負荷がかかる、
精神が削り取られていく、
そうまでしてようやく掴み取られた言葉を
どうにか表現する、
それぐらいのことをやってのけるのが
一流の詩人なのだ。


ニーチェの『善悪の彼岸』の中に


>>

怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵しんえんを見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである。
 
ニーチェ竹山道雄 訳)『善悪の彼岸新潮文庫、p132)

<<


という言葉があるが、
詩を書くとは
この深淵をあえてのぞいていく行為、
自ら怪物になってしまうかもしれない
リスクを負ってまで行う行為
なのかもしれない
と僕は思った。


長くなってしまったが、
ここまで読んでくださり
ありがとうございます。
といっても、ここまでの話は
まだこの本の「序」の部分に過ぎないので、
まだまだ続きます。